大海水(だいかいすい)とは海の水の意であり、海とは水の原点・原型の状態を表す。大海水の一般的な意味は“大海原の如く茫洋として大きな器を持った人間”である。
確かに癸亥と壬戌は茫洋として計り難い大きさを感じさせる人間である。だがその本当の意味は単なる褒め言葉ではない。“海の如き人”とは早い話が“原始的な人”の意であり、何の進歩成長もない“生まれたままの本能の人”という意味である。例えば癸亥は丑が因縁となり情欲(人からチヤホヤされる)が強く、また壬戌は子が因縁となり物欲が力強い。両者とも世間の良識や道徳に拘束される事を嫌がり、自分の思い通りに好き勝手に生きる傾向が強く、欲しい物は恥も外聞も無く欲しがる。また大変に無神経で繊細な情感がなく程度や加減というものが分からない。その性質とは単に赤ちゃん(癸亥)と胎児(壬戌)の性癖ではなかろうか。
赤ちゃんや胎児は発育の為に貪欲に物を欲しがり、恰好も体裁も見栄も無く、向上も努力も無くまた人情も同情も無い、無論、人に与える喜びなど知るよしも無い。赤ちゃんは構ってくれるなら誰でも良いし無限に情愛を欲しがるものである。また最初に与えられた環境を永遠に好み、最初に覚えた物を飽きもせずトコトンやり続ける。彼等の人間離れした才能とはこのような赤ちゃんの才能と言えるだろう。
この様に考察すると、大海水の生命とは態度や気位だけは報身だが、彼等が実際にやっている事と言えば丑や子の所作である。それは丑や子の生命と何も変わるものではない。いかにも彼等は報身の赤ちゃんと応身の胎児と言える。体は応身でも、子として現れるのなら、影響力が大きい分本物の子の生命よりまだ悪い。
大海水の生命は、我を律する理性力に欠如している為に、自己の因縁をストレートに剥き出し、欲望の虜(とりこ)に成ってしまう傾向が強い。自尊心が強く格調が高い割に、餓鬼っぽい欲望の為に汲々とする性癖がいつまで経っても治らない。報身や応身の肉体を持って生まれても、結局多くの人間がそのひとかけらの性質すら呈示できないまま一生を終える。この生命を一口で表現すれば、与えられた因縁のままに生きる“そのまんま人間”である。原始無垢な状態のまま進化せずに一生を送る大海水の生命は、一体どこが大きい人間だと言えるだろうか。
大海水と対冲する納音は長流水(癸巳・壬辰)。両者は良く似ているが正反対の因縁を持つ。大海水の人間は自己の姿を飾らずそのまま出すが、一方長流水の人間も自己の姿をそのまま出す。大海水の人間は海の如く自分を決して変えようとしないが、同様に長流水の生命も河の流れに身を任せたままで世間の時流に従い、自己を鍛練し変化させようとは考えない。両者は互いに在りのままの人間であるが、海の水は不動だが、河の水は絶え間なく変化する。長流水とは一定確固たる信念の無い自己喪失人間の意味。
この生命は亥の乳児期にあたる生命で、報身体(140才)の出発点に該当する生命である。六十干支の末尾・回帰点に当たる生命で本来は原点や原型を現す帰納点を意味する。川の人生が海に戻って集結するという「大海水」の生命で、原始の人間の姿を彷彿とさせる生命である。人生は楽しむものと言わんばかりの好き放題の勝手主義者で、自分の思い通りに気が済むまで遊んでいるので「極楽猪」と呼ばれる。分量や加減というものを知らないのか、やり始めたらトコトン貫き通す人間で不可能を可能に変えてしまう偉人だが、万事に渡って無頓着などんぶり勘定で綿密な所が少しもない、いわゆる「お任せ主義」の人間である。夢中になったら、そればかり続けるので、馬鹿の二文字が付く(例えば野球馬鹿とか動物馬鹿)事で有名な生命でもある。如何にもあんたが大将という言葉がぴったりの人象だが、根は決して悪い人間ではない。猪突猛進なのも大変結構だが、少しは周囲の状況や相手の都合も考慮して欲しいものである。