海中金(かいちゅうきん)とは海中の金の意。海とは原始原点を示す言葉で母親の子宮の意。また金とは仏性を表す。原始の海中で光輝く金である事から、世間とは掛け離れた清廉な浄土(別世界)で秘めやかに清く美しく輝いている金を意味する。その様な事から、一般的に海中金とは“別世界に住む心の美しい人”の意。
確かにこの生命はお姫様か、さもなくば天使の様な存在で、世間に滅多に顔を出す事のない隠れた存在の生命である。純粋無垢の結晶体と言った感じの人象で、生活の匂いを感じさせない微風の様な薄い印象の生命であって、欲望も感情も無くまた存在感も無いと言う感じの非力な生命である。それでいて理知的かつ高貴な品格を備えている為に、思わず手を差し延べて守護せざるを得ないと言う誠に徳分の高い生命と言える。
海中金の生命は本来“早熟の天才”と異名を持つ生命で、幼い頃から卓越した能力を発揮するが、繊細な優しい神経と欲望が薄い事が原因して、年齢に伴い他の生命に圧倒されて目立たなくなってしまう傾向が強い。俗世間の風は余りにも汚く凄まじいので、それにどうしても馴染めなく、別世界の中でマイペースに生きる事を余儀なくされてしまうのである。別にガツガツ働かなくとも、不思議な事に取り巻きがこの生命を庇護して養育してくれる為に、その美徳を頂戴して生計が成り立つ。そもそも、海中金の生命の実体とは“仏の胎児”であって、私の子宮(羊水の海)の中で息づく生命である。そんな綺麗な人間が俗世の垢にまみれる筈もない。いかにも私の用意した別世界の浄土でキラリと光る仏性を携えて一人静かに暮らしていると言った感じの生命である。無論、尊い仏性を備えていた所で、俗世を生き抜く力(欲望力)に不足するのは致命的であり、衆生を牽引出来る様な器ではない。人間の原点とはこんなに美しく可憐なものかと、原形を教えてくれる教科書の如き生命と言えよう。
この生命は丑や子が報身や応身で現れるもので人間以前の生命体と言える。若干の我意や物欲はあるものの、感情が生じる以前の生命体であって、丁卯や丙寅の様な情感に根ざした醜悪な欲望を持たない事が特徴である。
有名人では萩原朔太郎、大岡昇平、中島敦、池田満寿夫、本田宗一郎、ビル・クリントン、小宮悦子(乙丑)、あるいは正田美智子(上皇后陛下)、山東昭子、五輪真弓、田尾安志(甲子)等がこの生命であるが、いずれも仏様の如き清き生命で、良い人だが非力で存在感の薄い生命と言える。才能もあるが、それよりも天賦の功徳で生きられる生命でありその美徳に甘えずに生きたいものである。
海中金と対冲する納音は沙中金(乙未・甲午)。両者は幼年仏と青年仏の違いである。青年仏(沙中金)は人間らしい情感を備えており喜怒哀楽の情を持つが、幼年仏(海中金)には情感が発達しておらず、情味に不足して怜俐に感じるのが特徴である。
この生命は丑の報身期に当たる生命で、丑の仲間では第五生命体つまり丑の最高権力者である。本来この生命は海中金(海の中の金)と呼ばれる生命で、その意味は海(別世界の浄土)の中に住む人の意。俗世の親分である丁丑とは異なり、乙丑は麗しき浄土に住む天使のような生命で、下界とは隔離された特別な世界で一人静かに暮らしている。癸亥とは因縁が逆パターンの生命で、そもそも生息する範囲(縄張り)が異なる。この生命は『謙虚の美徳』を備えた菩薩のような生命で、よい家柄にしか生まれてこない純潔の天皇丑であり『菩薩丑』とも呼ばれる。『早熟の天才』と異名を取る生命で、幼少の頃からその天才ぶりを遺憾なく発揮する生命だが、表舞台に立つ事や騒がれる事が苦手で極力目立たないように心掛けている珍しい生命である。世俗の垢に染まるのが大嫌いで、いかにも清廉なる別世界の浄土で一人美しく生きていると言う『海中金』の生命である。まさしく子宮の羊水の中で息づく胎児と言える。取り巻きの環境が整っていれば何も要らないと言う欲心の薄い生命だが、その謙虚な姿勢と理論的な能力が評価されて表舞台に引きずり出されるが、そもそも汚きこの世の衆人を導けるような器ではない。